相撲界の歴史と改革 その1

★1684年(天和4年)
寺社奉行の管轄のもと、相撲団体の結成と興行が許可された。興行を願い出たなかの初代の雷権太夫がおり、年寄による管理体制も確立され、年寄名跡のはじめともなった。
土俵は無く見物人が直径7~9mの人間の輪をつくりその中で取り組み行われたらしい。


★寛文年間(1600年代半ば)
プロレスなどのリングのように柱の下へ紐などで囲ったなか取り組みで行われた。
これが俵で囲んだ四角い土俵の原型といわれる。


★延宝年間(1670年ころ)
土俵の四隅に柱を立てその上に屋根をつくり、柱には四神をあらわす4色の布を巻いていた。
屋根の下、13尺(3.94m)の丸い土俵が設けられそこで取り組みが行われた。
この時期には京都や大坂にも相撲の集団ができた。


★1789年(寛政元年)
司家の吉田追風からの横綱免許が実現。


★1827年(文政10年)
吉田司家が江戸幕府より「江戸相撲方取締」という役を任じられる。


★幕末
対レスリング、対ボクシングなどの異種試合が行われたことがある。


★1871年(明治4年)
明治維新に伴い、東京府からの「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑をうけ、「相撲禁止論」もでる。明治天皇と、その意を受けた伊藤博文たちの尽力により、大相撲が社会的に公認され危機を乗り越えた。


★1890年(明治23年)
番付にはじめて「横綱」という文字が登場する


★1909年(明治42年)
両国国技館の落成。常設の相撲場が初めてできる。
相撲が国技と制定される。
東西対抗戦により団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与されることになった。


★1925年(大正14年)
財団法人大日本相撲協会誕生


★1926年(大正15年)
個人優勝制度が確立された。優勝者に賜杯が授与されることになった。


★1927年(昭和2年)
東京相撲協会と大阪相撲協会が解散、合併し、大日本相撲協会が発足。
年4場所、11日間の興行。


★1928年(昭和3年)
ラジオ中継が始まる。
仕切り時間が制定。仕切線の設定。


★1930年(昭和5年)
土俵上の4本の柱の前に座っていた審判が土俵下におりる。


★1931年(昭和6年)
土俵の直径が13尺(3.49m)から15尺(4.55m)へ拡大された。二重土俵を一重に改める。


★1932年(昭和7年)
1月場所前、春秋園事件で多くの力士が脱退したため、急遽十両、幕下力士を幕内に引き上げ2月に8日間の興行。東西制は廃止せざるを得ず、系統別総当たり制になる。
5月場所より11日間興行に戻る

★1933年(昭和8年)
前年起きた春秋園事件の影響もあり年2場所へ縮小。


★1937年(昭和12年)
双葉山の連勝などもあり大相撲人気に後押しされ5月場所より13日間の興行となる。


★1939年(昭和14年)
さらなる人気にともない5月場所より15日間の興行となる。


★1940年(昭和15年)
東西対抗制が復活。
東方 立浪、二所ノ関、伊勢ケ浜、朝日山などの連合
東方 出羽の海一門と高砂の横綱、大関二人が参加


★1944年(昭和19年)
国技館が軍に明け渡され、後楽園の野外の土俵にての10日間興行になる。
翌年の1月場所を11月に繰り上げ開催で年3場所開催。


★1945年(昭和20年)
両国国技館が空襲により屋根に穴があくなど大打撃。
6月、空襲激化により7日間の非公開興行。
11月に晴天のみの10日間興行。
進駐軍の要請で土俵を16尺(4.85m)に拡大。
しかし力士会の反対により一場所限りで15尺に戻される。
制限時間を幕内5分に短縮。


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