相撲界の歴史と改革 その2

★1946年(昭和21年)
進駐軍に接収されメモリアルホールという名になった国技館を借り
11月に13日間興行


★1947年(昭和22年)
6月に10日間、神宮外苑での興行。同点決勝制度導入。
11月11日間興行。系統別総当たり制、三賞制度導入。


★1949年(昭和24年)
5月場所より15日制復活。


★1950年(昭和25年)
1月場所、仮設、蔵前国技館での興行。
横綱休場により横綱の権威に疑問、横綱降格論がおこる。
その影響により5月に横綱審議委員会が発足。


★1951年(昭和26年)
横綱審議委員会への諮問、相撲協会免許の第一号、横綱千代の山誕生。


★1952年(昭和27年)
四本柱が撤廃され吊り屋根になる。


★1953年(昭和28年)
NHKテレビで大相撲放送開始。年4場所制へ(東京3回、大阪1回開催)


★1954年(昭和29年)
蔵前国技館が完成。


★1955年(昭和30年)
9月場所、5時半中入り、8時打ち出しのナイター興行を実施も、この場所限り。


★1957年(昭和32年)
相撲協会の運営のあり方が国会で問題視される。
力士の月給制、枡席の一部を一般開解放などの改革案導入。
11月九州場所が本場所に昇格し年5場所に。


★1958年(昭和33年)
7月、名古屋場所が本場所に昇格し、年6場所制に。


★1961年(昭和36年)
年寄の定年制(65歳)が実施された。


★1962年(昭和37年)
海外の大相撲ファン拡大と収益を目的にハワイでの初めての海外巡業が行われる。




sumo2.jpg




★1965年(昭和40年)
一門別総当たり制から部屋別総当たり制へ。
ソビエトではじめての海外公演(モスクワとハバロスクで開催)。


★1970年(昭和45年)
3場所連続から2場所連続負け越しで大関陥落に改革。
と同時に陥落翌場所に10勝以上の成績で大関へ復帰の制度制定。


★1971年(昭和46年)
幕内人数を34名以内から38名以内に改定。


★1971年(昭和46年)
中学卒業後でなければ入門できないこととなる。
すでに在籍していた中学生力士は、東京場所の日曜日のみに出場可能となる。


★1972年(昭和47年)
公傷制度が導入された。(のちに廃止)


★1984年(昭和59年)
立ち会いに仕切り戦に両手をつく立ち会い正常化が実施される。


★1985年(昭和60年)
両国新国技館開館。


★1992年(平成4年)
外国人力士を協会全体で40人に制限する。


★1995年(平成7年)
巡業改革により、各地の興行を希望する勧進元主催から協会の自主興行に変更された。


★1998年(平成9年)
「年寄名跡の所有者と使用者」の情報公開。新たな年寄名跡の賃借禁止。複数の年寄名跡取得禁止。その代償として準年寄制度の新設。


★1998年(平成9年)
1992年夏場所以降自粛されていた外国人力士の入門を解禁。師匠会の申し合わせで1部屋2人(全体で40人)までとした。


★2002年(平成14年)
年寄名跡の貸し借りを容認することを決定した。


★2002年(平成14年)
外国人力士を一部屋につき一人までと改正する。


★2005年(平成17年)
地方巡業の落ち込みにともない相撲協会の自主興行から勧進元主催へもどされる。
1月場所から大相撲公演中、枡席を含め全館禁煙となった。


★2006年(平成18年)
今まで、「解雇」「番付降下」「給料手当減額」「けん責」の4種類と定めていた力士の処罰に「出場停止」が加わる。(カメラマンへの暴行で露鵬を、規定になかった出場停止処分にしたのがきっかけ)


★2007年(平成19年)
準年寄制度が廃止された。


★2007年(平成19年)6月
時津風部屋力士暴行死事件(時太山事件)が起きる。
10月、15代時津風を部屋持ち年寄としてはじめて解雇した。


★2008年(平成19年)
角界大麻事件がおき、4名の力士が解雇処分。



SUMOUDVD.jpg