春秋園事件

1932年(昭和7年)1月場所を前に、関脇 天竜三郎(もちろんプロレスラーの天龍ではない)、大関大ノ里以下出羽海部屋の西方全関取たちが、東京・大井町の中国料理店「春秋園」に立てこもり相撲協会の体質の改善、力士の待遇の向上などの10箇条を要求し、大日本新興力士団を結成。それゆえに春秋園事件といわれる。首謀者の名から「天竜事件」や「天竜・大ノ里事件」とも呼ばれる。


天竜たちが要求した10箇条

1. 相撲協会の会計制度の確立とその収支を明らかにすること
2. 興行時間の改正、夏場所は夜間興行にすること
3. 入場料の値下げ、角技の大衆化、枡席を少なくし、大衆席を多くすること
4. 相撲茶屋の撤廃
5. 年寄の制度の漸次廃止
6. 養老金制度の確立
7. 地方巡業制度の根本的改革
8. 力士の収入増による生活の安定
9. 冗員の整理
10. 力士協会の設立と力士の共済制度の確立



またこれに続き、朝潮(後に男女ノ川に改名)、鏡岩ら東方の関取の幾人かも脱退して革新力士団を結成。(後に両団体は合併して大日本相撲連盟が結成された。)
天竜たちの新興力士団が翌2月に根岸で旗揚げ興行をし多くの観衆で賑わい大成功した。


一方、相撲協会は2月になって急遽、十両力士を大量に幕にあげても足りず、幕下力士を十両を飛び越し5名幕にあげるなどし改正番付をつくった。
そして国技館で2月場所を行ったが人気力士が多く抜けたことなどで観客の入りは少なく収入は従来の一日分程度であった。


多くの関取が力士の地位向上や日本相撲協会の体質改善などを要求し協会を離脱したが、力士会の設立や養老金制度の確立など以外の主張は受け容れられず、新団体の内部分裂も発生し事件の翌年1933年初めには多くの力士が帰参した。


その後は大ノ里、天竜らは関西角力協会を設立して、関西を拠点に興行したが、玉錦、双葉山らの台頭で相撲協会が人気をを取り戻し、さらに帰参する力士も増え、1937年にやむなく解散した。


天竜はその後満州にわたり満州角道会を設立し相撲の普及や力士育成に尽力した。
戦後は銀座に料理店を開業したり毒舌な相撲解説でも人気を博した。
また国会でも1957年(昭和32年)に相撲協会の体質が問題視された時に参考人として出席し春秋園事件の主張を新たに公にする機会を得た。


春秋園事件以前にも、力士たちが決起した事件はいくつか起きており、その多くが、協会に処遇への不満などを改善する要求のためにおきた事件だと言われている。
しかし春秋園事件以後、力士たちによるそのような事件は起きていない。

(Wikipediaを参照)


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